説話文体の研究の実例 マルコ10章46〜52節

最初に説明しました、説話文体の研究のポイント項目に従って、マルコ10章46〜52節と取り上げて、研究の実例を示したいと思います。該当個所をお手元の聖書かe-swordなどで一度読んだ上で、確認していただきたいと思います。申し訳ないことに、今回はe-swordがあまり資料として役に立っていないのですが、一つの手順の例として見ていただければと思います。

ポイント1)時代背景、誰が誰に書いたかなどの確認
マルコによる福音書は、題の示す通り、マルコという人が書きました。e-swordで、マルコという標題か、1章をクリックすると、右の注解ウィンドウにマルコ福音書の導入説明が有ります。Gillによるものが一番簡潔です。マルコが新約聖書の他の場所にも出てくる人で、キリストの弟子であり、使徒であったペテロから「息子」と呼ばれていた(近い師弟関係だった)ことがわかります。
 聖書研究的に知らなくてはならないポイントは、今回は見つけ難いので、他のスタディー・バイブルの情報を拝借することにいたします。
 マルコの福音書は、主にローマ人を読者と想定として書かれており、大まかに言えば、ユダヤ人ではない人たちに向けて書かれたということになります。

ポイント2)物語の時代、背景、場所など
 エリコという町でのことだと本文に書いてあります。ISBEでJerichoと検索すると、歴史的な説明が有りますが、最終段落の情報が役に立ちます。この町を通るルートが、ガリラヤ地方の人にとってのエルサレム神殿への巡礼ルートだったことがわかります。そういう場所は、人通りが多いので、物乞いが多く座っていたと言われます。
 キリストの生涯を追う年表を見ると、これがキリストによる最後のエルサレム巡礼で、この後十字架に架かって、人類を罪から贖うために死ぬことがわかります。また、ある注解では、これが、衆目の集まるところでなされた最後の奇跡の物語だとされています。(広く目撃されなかった奇跡はこの後にも有ります。)最後の奇跡なら、重要度が高いメッセージが有るはずだと疑ってみるべきです。

ポイント3)強調点
この物語には、「見よ!」などの言葉は有りませんが、繰り返しによる強調が有ります。バルテマイという名の盲人が、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と何度も繰り返していることがわかります。その台詞も、二回記録されています。物語全体の結論を考える時には、これを無視することはできません。

ポイント4)登場人物の行動や発言
詳細に全部確認できればいいのですが、今回は中心人物であるバルテマイだけを取り上げます。
 
キリストが通ると知って、大声でキリストに助けを求めます。「ダビでの子」というのは、ユダヤ人にとっては救世主の称号です。彼はキリストが救世主であるという信仰をもっていたことを示します。(注解ウィンドウでGillを選ぶと、説明されています。)また、人々がたしなめても、あきらめないで叫び続けています。

キリストに呼ばれたとわかると、上着を脱ぎ捨てます。記者マルコが、どうしてわざわざ上着のことまで書いたのだろう?と考える視点が必要です。上着は、物乞いが持つ大切な財産でした。自分を夜の寒さから守り、また、昼は自分の前に広げて金銭や食べ物を載せてもらために用いました。自分の生きる術であったわけです。それを捨てるということは、もうそれは要らないという確信が有ったということです。キリストが目を癒して開いてくれるという確信が有ったということになります。
 キリストが彼を呼んでいると知ると、目が見えないのに、飛び上がるように立ち上がって行ったようです。そして、キリストに何が望みかと尋ねられると、はっきり「目が見えるようになることだと答えています。
 目が見えるようになって、バルテマイは、キリストについて行ったと書いて有ります。キリストの行き先はエルサレムでしたし、そこで彼は捕らえられて十字架にかかりますから、その経緯なども身近に観察したことと思われます。

ISBEでバルテマイの名前を検索すると、アラム語系の名前で、「テマイの息子」という意味だと書いて有ります。更に、「テマイ」という部分は、ギリシャ語的には「誉れ」という意味が有ると書いて有ります。興味深いのは、ISBEの記者が、有り得ない「汚れた」という語からの派生について記している辞典を紹介していることです。「汚れの息子」というような意味だとする学者が存在する可能性が有ります。この立場を取る学者は、霊的に神から離れた存在、汚れた存在もキリストとの接点を持つことができることを強調するかもしれません。名前が記されているのですから、エルサレム近辺の初代のクリスチャン達には知られた存在であったと想像できます。おそらく、キリストに目を癒された後は、ずっとキリストの弟子として生きたであろうと想像されます。

ポイント5)締め括りの言葉を確かめる
この物語の締め括りの言葉は、『するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。』となっています。キリストの言葉と、バルテマイの行動の二つが材料として提供されています。
 ここから読み取れることは、神であるキリスト自身がバルテマイの信仰をよしとされたということです。また、バルテマイは、目を癒されたことだけで満足せず、キリストに従う者になったということです。そういうバルテマイに倣うべきだという意図が有ると考えられます。

結論
この説話文体が教えようとしていること、伝えようとしているメッセージは何かということをまとめてみようと思います。
 記者マルコは、ローマ人を中心とする、非ユダヤ系の人達に語りかけています。大事なのは、繰り返しによる強調で示した、「ダビデの子、イエス様、わたしをあわれんでください。」という姿勢ですよと言っていると考えられます。すなわち、イエスをキリストであり神であると信じる信仰、キリストを信じ切って呼ばわり続ける信仰です。そういう信仰に、キリストが応えてくださる、救ってくださるということです。
 付随することとしては、本当にそのように信じているならば、バルテマイが上着を脱ぎ捨てたように、自分の手段や策略に頼って生きるのではなく、キリストに頼って生きることを勧めていると考えられます。また、癒された後のバルテマイのように、信仰告白をしたならば、キリストに従って行く者になることを勧めていると考えられます。マルコがローマ人達のためにこの書を著した時には、キリストはすでにこの地上には居ませんでしたから、従うというのは、その教えを守って生きることを意味します。
 また、これがキリストが十字架の死の直前に、公に行った最後の奇跡であるということを考えると、キリストの遺言と言えるような、中心的な教えの一つであると言えます。


説話文体が、必ずしも「ちょっとだけ頑張って」の労力では確認できないかもしれませんが、手順を知っていることと、有る程度の材料が有るということは有意義であると思います。

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