一つの節に現れた二つの「主」

  マタイ22:41-45には、イエスとパリサイ人たちの問答が有ります。イエス旧約聖書からの引用をして彼らに質問をします。教会に長く通っている人は、一応の意味は理解していますが、パリサイ人たちが同様の意味を把握することができる者であったかどうかという疑問がわきました。

  そこで、このブログの聖書研究ツールであるeSwordを用いて確認をしてみました。

  私の注意を引いたのは、「主はわたしの主に言われた。」という部分です。引照付きの聖書で見ますと、詩編110:1からの引用であるということです。それで、eSwordを開き、KJVという聖書で該当箇所を開きます。

  最初の主にあたる"The LORD"には、H3068というStrong's Numberがついており、二つ目の主にあたる"(my) Lord"には、H113というStrong's Numberがついています。それぞれのNumber をクリックすると、定義ががDictionariesの欄に表示されます。

  H3068には、Jehovahであると表示されました。キリスト教において父なる神と呼んでいる神のことだと理解することができます。

  H113には、Adoni(アドナイ)という語で、Lord, 主と訳される語であることが示されます。旧約聖書のへブル語ですから、そちらを専門に解説している辞書であるBDBに切り替えてみますと、王や主人という意味の他に、「神」という意味が有ることがわかります。アドナイという語は、他の言葉と組み合わせて、「~である神」という表現でよく用いられます。

  イエスがパリサイ人たちにした質問は、メシアはどういう存在かということを明らかにする意図が有りました。ダビデは、メシアを「私のAdonai」と表現しました。その理解は、「父なる神は、私の主なる神に言われた」と訳せる内容になります。メシアはダビデの子孫であり、同時に神であることになるが、ダビデはどうしてそういう表現をしたのかというのがパリサイ人たちへの質問の内容だったということになります。そういう理解でなければ、45節の質問「ダビデがキリストを主(神)と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」が意味をなしません。

 

 

ブログタイトルの下に表示されますブログ村のバナーのクリックにご協力いただければ幸いです。