説話文体研究の実例 イエスの奇跡物語シリーズ #11 悪霊つきの聾唖者の癒し

今回は、マタイ9章に出て来るエピソードです。

この奇跡物語はかなり短いために、ポイントの読み取りが少し難しいように感じます。どうして、マタイがこのような短い描写でこの物語を記録したのか、前後の文脈に手掛かりは有るかなども考えながら、そして、いつもの様にe-swordを使いながら、確認してみます。


文化的・地理的背景など

直前に盲目の人が癒されています。そして、即座にこの口のきけない人が連れて来られます。それだけイエスは忙しかったということのようです。また、盲目の人と口がきけない人が一対になって出て来る、イザヤ35:5の預言の有様が、実際に起きていることを、ユダヤ人の読者に示す意図が有ったと思われます。   
 また、連れて来られた人の状況を表す語は、口がきけないことだけでなく、耳が聞こえないことも含むものです。生まれつき耳が聞こえない場合は、自然の成り行きとして言葉を習得できませんが、「悪霊につかれた」とわざわざ断っていますから、心の持ち方が悪かったなどの原因で悪霊の影響下に有り、後天的に口がきけなくなっていたと理解できそうです。(Gill参照)
 群集の言葉から、これはイエスの宣教の比較的初期の出来事であると考えられます。それまで、そのような奇跡の業の報告を聞いたことが無かったことがうかがえます。


強調点

何もイエスの言葉や行動が記録されていませんが、すぐに悪霊は追い出されたということがわかる展開になっています。それだけ、イエスの力は強く、また悪霊に対して権力が有るということを強調していると考えることもできそうです。
 悪霊が追い出された後、その人がしゃべるようになったということで、群集が驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言っています。これも強調の表現と見ることができそうです。「こんなこと」と訳された語を、e-swordのギリシャ語聖書で調べますと、単数形です。しかし、Gillの解説は、これは一連の長血の女の癒し、ヤイロの娘の蘇生、盲目の人の癒しと今回の悪霊につかれた口のきけない人の癒しのエピソードが、短時間のうちに立て続けに起きていることも指していると考えています。どちらにしても、イエスが力有る奇跡の業を行うことができる存在だということを強調しており、これはイエスがキリスト、メシアであるということを示しています。


人々の言動でわかること

癒された人は、イエスの直弟子であったマタイによって悪霊につかれていたと説明されていますから、キリスト教徒としては、その判断を信頼することになります。そんな状況の人は、自分から進んでイエスに会いたいとか癒されたいと思わないでしょうから、「連れて来られた」という状況になります。この人をイエスの所に連れて来た人達には、少なくとも、イエスに癒す力が有るということを信じる心が有ったと言えます。その中には、このイエスが約束のメシアで、キリストであるという信仰を持ち始めた人も居たかもしれません。
 
パリサイ人達は、否定的な反応を示しています。イザヤ35:5で預言されていたことが起きたのですから、旧約聖書の専門家としては、このイエスがメシアであると判断する材料が整っている状況でしたが、彼らはそれを受け入れられませんでした。そこに彼らの自己中心な姿勢を見ることができます。


締め括りの言葉

この短い物語の締め括りは、パリサイ人達の否定的な言葉になっています。他の福音書では、イエスによる解説や反論が続きますが、マタイによる記録にはそういう部分は有りません。
 ここからわかることは、このような力有る奇跡の業を見ても、預言の成就を見ても、パリサイ人達はイエスをメシアとして受け入れなかったということですが、それよりも、キリストを受け入れる者の視点からすると、反対者達でさえも、イエスが行った奇跡自体は否定のしようが無かったということが意味を持つと思われます。


マタイが伝えたかったこと

1)前の盲人の目の癒しの話と一つながりで考えて、イエスの出現と奇跡は、イザヤ35:5の預言の成就である。
2)従って、イエスはメシア、キリスト、救い主である。
3)連続する奇跡は、イエスが力有る神の使者、メシアであることの証明である。

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