説話文体研究の実例 イエスの奇跡物語シリーズ#6 中風の男の癒し マタイ9:1−8

背景など
直前の話では、イエスはシリア系の人が多いガダラ地方に居ましたが、再び船に乗って西岸に戻りました。「自分の町」という表現は、カペナウムのことであると、e-sword のBarnes による解説は述べています。

中風と表現されている病気は、元来「力の抜けた、弱い、緩められた、溶けた」というような感覚の言葉で、神経が働かないもしくは弱い様子を含意したようです。現代的に考えれば、脳の障害、もしくは頚椎などの損傷、高熱の跡の神経の麻痺などのことかもしれません。

エスが「あなたの罪は赦された」と言ったことに対して、律法学者が「この人は神をけがしている。」と考えています。どういうつながりかと疑問に思う人も多いのではないかと思います。Barnes が詳しい説明をしていますが、特にこの場面に当てはまるのは、「神にしかできないことをしようとすること。」という意味においてのそれであるとしています。人間の分際で神として振舞って、神に不敬を働いているということです。


強調点
突っ込んで調べれば、イエスの質問なども強調の効果が有るように思えますが、今回は、8節を取り上げたいと思います。「群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。」と書いてあります。「恐ろしくなり」というのがはたして適切な訳なのかは疑問ですが、それぐらいの衝撃が有ったということは事実なようです。Gill が、「人々は聞いたことも見たことも無いような出来事に驚愕し、仰天し、このような業は人間を超えた存在にしかできないと結論付けて、神に栄誉を帰し、賛美した。」というような内容の説明をしています。「恐ろしくなり」と訳された語は、驚き、何事かと思い、賞賛するという内容を持っています。


人々の言動からわかること
中風の人を連れてきた人達 − イエスには病を癒す力と権威が有るということを信じていました。イエスは彼らのその信仰を見たと書いてあります。「見る」と訳された語は、単純に視界に入ったということではなく、「観察する、見極める、注視する、調べる、わかる」ということまで含意したものです。イエスが認めるだけの信仰が彼らには有ったということがわかります。

律法学者 − ユダヤ教的伝統と聖書の理解からすれば、これまでも、何度もイエスは神の使者である証拠と成り得る奇跡を行ってきました。しかし、律法学者はそれを受け入れる気持ちは毛頭無かったと言えます。イエスが中風の人を連れて来た人達に認めた信仰は彼らには全く無く、好対照になっていると言えます。また、イエスに「神を汚している」という評価を与えることによって、断罪し、無き者にしたいという気持ちが読み取れます。

周囲に居た群衆 − 群集はこの奇跡を神の業と認めて、神に栄光を帰し、神を賛美しました。それが、イエスをメシアと認める段階に達しているものかどうかは、この箇所の表現からは微妙であると感じます。しかし、実際に幾つもの奇跡を目撃したり報告を受けたりしている律法学者は、この時も目前で奇跡がなされたにも関わらず、群集のように神に栄光を帰することさえしなかったようです。

ここまで確認すると、律法学者の態度は、中風の人を連れて来た人達の信仰と反対であり、また、群集のこの奇跡への評価とも反対であり、ある意味では繰り返しによる強調と考えることができるかもしれません。律法学者達は意固地で、少しもイエスを受け入れなかったということの確認、強調となり得るでしょう。


締め括りの言葉
エスが律法学者の心中の批判に対して語った言葉が、この奇跡物語のまとめになっている部分が有ります。イエスは心の中の言葉もわかる存在です。
 先ず、イエスは律法学者に、「なぜ心の中で悪いことを考えているのか。」と質問を発しました。彼らの考えを「悪いこと」と評価したのは、イエスを神の使者と認めないからです。
 続いて、「『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。」と質問しています。この質問は奇妙な質問です。この二つが一体どうして比較の対象になるのでしょうか。真面目に答えようとして考えると、どちらも難しくて口に出して言えそうも無い内容です。Barnes も Gill も、これは神にしかできないことであるということを指摘しています。つまり、イエスは、質問の形式で話していますが、実は「私は神の使者であり神なのだぞ。」と言っていることになります。
 この後、イエスは、「どちらが難しいか。」と尋ねた二つ目の方を実行に移すのです。先に言葉で表現した、「私は神の使者であり神なのだ。」ということを、今度は実際に奇跡で証明して見せたのです。
 この時、イエスは奇跡を行う「目的」を先に示しています。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」というのがその「目的」です。「人の子」という言葉を使っていますが、これは、「メシア」を表す称号です。ですから、イエスは自らメシアであると公言しているのです。そして、旧約のダニエル書7章に出てくる「人の子」は雲に乗って来て永遠の王国を打ち建てるとされていますから、律法学者たちにも、これは神であると考えられていました。「人の子」という語の理解については、ISBE に son of man と入力して確認してみてください。


マタイがこの物語を通して伝えたいこと
1)イエスは自ら宣言している通り、神の使者・メシアであり、神である。
2)イエスがメシアであり、神であることを信じるか信じないかは大きな違いで
  あり、後者は神の目から見て「悪い考え」なのである。
3)ある種の病気は、直接原因が他に有るかもしれないが、根本的には罪が原因
  になっているものが有る。

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