説話文体研究の実例 イエスの奇跡物語シリーズ#7 長血の女の癒し マタイ9:20−22

背景など
実は、18節から始まるヤイロという人の娘の癒しの物語の間に割り込んだようなエピソードです。結論が後から来るので、ヤイロの娘の話は次回取り扱います。

女性の「長血」という病名は、聖書用語のような部分が有るようで、一般の記述では見かけないものです。生理のような血の流出が継続的に有るもののことであることが想像できます。出血を伴う子宮筋腫子宮内膜症のようなものではなかったかと考える解説も有ります。それが12年も続いたということですが、これはヤイロの娘とのつながりで考えることが有ります。それは次回に触れます。
 マルコは、この女性があちこちの医者にかかって財産を使い切るほどだったけれども、治らないだけでなく悪化したと書いています。出血が続くと貧血状態になりますから、その体を支えるための投薬をしたでしょうから、造血作用が有ったり、滋養強壮作用のあるものが与えられたでしょう。しかし、肝心の子宮筋腫だか内膜症だかが癒されなければ、更に出血の度合いが上がるということはあったかもしれません。
 この女性にとって深刻だったことは、健康問題の他に、モーセの律法の規定が有りました。体から漏出の有る者は、祭儀的に穢れているとされていたため、礼拝に行けないとか、人に触れてはいけないなどの規制が有ったので、普通の生活ができないのでした。それが12年も続いたのですから、不便で、精神的にもかなりの負担が有ったと考えられます。

この女性はイエスの着物の房に触ります。e-sword で Barnes の注解を読みますと、イエスの着物というのは、四角いというかボックスタイプで四隅が有る上着のことであったろうとしています。その着物のすそには、房と表現される多分糸のようなものが下がっていただろうというのです。これは、聖なることを表し、ユダヤ人は神に選ばれた聖なる民であるという区別の印にこれをつけるように律法で命じられていました。パリサイ人達などは、自分が聖なる存在であることを誇示するために、必要以上にそれを大きく広く取ったデザインの上着を用意したようです。
 その着物の房が聖なることの印であっただけでなく、それを着ているのが著名なラビであるイエス・キリストであったことに、この女性は大きな期待を持っていたと思われます。メシアであるという噂の有るこのイエス・キリストの着物の聖なる象徴に触るならば、きっと大きな力が有るに違いないと考えたわけです。


強調点
今回は、典型的な強調の語「見よ」が使われています。よく考えなさい、こんなに状況の悪い人だったのですよ、というような部分を強調して注意を引き付ける意図が有ると思います。そうすることによって、この女性の長血が癒されたことにつながる要素が何であるかということに注意が向くことになります。具体的には、イエス・キリストの力と、その女性の信仰です。


人々の言動からわかること
この女性は実際にイエス・キリストの着物のすそに触れるという行動に出ました。続く説明に、『「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と心のうちで考えていたからである。』と有ります。マルコは、彼女が一切の事柄を告白したと書いていますから、彼女の説明で後から判明したことだと考えられます。「考えていた」と訳されています。不完全時制で、継続を表す動詞の形が使われているからでしょう。この女性にはそういう確信が有ったということであり、イエス・キリストはメシアであり癒す力が有るという信仰を持っていたと考えることができます。


締め括りの言葉
今回は、イエス・キリストが締め括りの言葉を述べています。彼女の信仰が彼女を癒したのだと言っています。
 付け加えておきますと、e-sword の Gill の注解には、「娘よ」という呼びかけは、愛情や心配りを込めた表現で、且つ、医者が女性の患者に呼びかける時にも使った表現であるという説明がされています。
 その時から全く治ったという記述が有りますが、「その時」というのは、イエス・キリストに声をかけられた時のことではなく、この出来事が有った時からということです。マルコは彼女が着物のすそに触ったると直ぐに癒されたと述べているからです


マタイがこの物語を通して伝えたいこと
イエス・キリストは多くの医者が癒せず、12年も続いた病気でさえも癒すことのできる、力有る存在であり、メシアである。神である。(旧約聖書には、神の呼び名の中にヤーウェ・ラファ「癒す神」というものが含まれ、癒す力の有るものは神だという認識が有ります。)
 この癒しをもたらしたのは、イエス・キリストはメシアであり、癒すことのできる神だという信仰である。そういう信仰を持つべきである。

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