文化的・地理的背景など

エスが「そこを出て」と書いてあるのは、会堂管理者ヤイロの家を出たということになります。死んだ娘が生き返ったという偉大な奇跡の直後ということですから、不信仰な人でも、イエスの奇跡に期待する心が当然芽生えたことでしょう。

別な家が出てきますが、単純に「家にはいられると」という記述しか有りませんから、普段から出入りした家ということになると思われます。Gillの注解では、カペナウムの家であろうとしています。

盲人がイエスについて来たということですが、視力障害が有るのですから、誰かに手を引いてもらっていたに違いありません。


強調点
特に解釈に関連して意味の有る強調点は無いと思います。ただ、イエスが癒された後の二人の盲人にきびしく戒めたということが書いて有ります。この動詞は、エムブリマオマイと読めるもので、Thayerによると「熱心な注意、きつい命令、言うことを聞かせるための脅し」というニュアンスが有るそうです。ですから、直接解釈に関係無いにしても、どうしてこんな強い表現が使われたのだろうということは考えてみるのが良いでしょう。


人々の言動でわかること
二人の盲人は大声で叫びながらついて来たと書いて有ります。熱心な願いであるということがわかります。また、彼らが叫んでいた言葉は「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」というものでした。ダビデの子というのは、メシアの称号でしたから、彼らにはイエスはメシアであるという信仰が有ったことになります。あわれんでくださいという表現も、基本的には神にしかしない言い方ですから、彼らはイエスの神性も信じていたかもしれません。
 彼らはイエスが家に入ると一緒に入って行きました。それだけの熱心と信仰が有ったと考えられます。そして、イエスが「わたしにそんなことができると信じるのか。」と問いかけると、「そうです。主よ」と答えています。信じていたのに、いざそんな質問をされると怯んでしまう人も居るかもしれませんが、彼らは即座にそう答えたようです。やはり、イエスは癒すことができる、メシアだという信仰を強く持っていたのだと考えられます。
 彼らは癒された後、このことを話さないようにときつく戒められたのですが、出て行った後は、その地方全体に言いふらしたと書いて有ります。言いふらしたと訳される動詞は、Strong’s では「詳細に報告する」というニュアンスの説明が有ります。また、Thayer の方には、「名声、良い評判を広げる、広く知らせる」というニュアンスの説明が出ています。すると、これは反抗心や悪い心から為されたことではないと考えられます。Gillの注解は、感謝の心と率直な熱心さでこれがなされたというような説明をしています。Barnes の注解では、嬉しくさのあまり、抑えきれなかったという説明をしています。しかし、イエスの言いつけを守らなかったという点では、過ちであったと言えます。

二人の盲人の手を引いた人は一人か二人かわかりませんが、その人達にもイエスはメシアで癒す神だという信仰が有ったと思われます。良い結果になるかどうかわからないと思いながらでは、わざわざイエスの所に行くために手を引いてやりはしないでしょうし、イエスは道を通って行く間には癒しの奇跡を行いませんでしたから、信仰が無かったらもういいだろうと思って盲人を止めて引き返したかもしれません。

エスはすぐに彼らを癒しませんでした。二人の盲人の信仰を固いものにするという意図が有ったかもしれません。また、癒す前にわざわざ自分にそんなことができると信じるのかと尋ねています。きちんと信仰の告白をさせようとしたと考えられます。すると、イエスは、彼らの信仰を確かなものとしたかったのではないかと思われます。
 イエスは今回彼らの目にさわって癒しました。さわらなくても癒す力の有る方でしたが、信仰で答えた二人の盲人に対する愛の気持ちを表したのかもしれません。
 道では癒さなかったり、癒された話をしないように戒めたのは、物珍しさでイエスを見る者や、意味の無い人気につながることを避けようとしたのだというような説明が有ります。その他の幾つかの可能性については、Gillの注解でご確認ください。


締め括りの言葉
エスが癒しを行う場面においての締め括りの言葉は、「あなたがたの信仰のとおりになれ。」というものでした。今まで何度も出てきた原則ですが、イエスをメシアであり、癒す力の有る神だと信じる信仰が大事だと言うことを示していると言えます。

この物語の最後の締め括りの言葉は、イエスのことをその地方全体に言いふらした(詳細に報告した、良い評判を流布した)ということでした。これは、次の物語への布石になっています。つまり、この報告のせいで、もっとイエスに敵意を持つ者が出て、イエスの悪口を言うようになったというつながりです。
 しかし、聖書の主張するところのイエスは神ですから、そのようなことが起きることは予め知っていたはずです。ですから、このような口止めの記事からは、もう一つの意味を読み取ることが必要であると考えられます。
 イスラエルでは、それまでも何人かが自分をメシアだとして人々を引き付けたり、軍事的行動を起こしてきました。彼らは人々を自分に引き付けるために、自分を売り込み、自分の栄誉を求める姿勢が有ったと思われます。しかし、イエスのメシア性は、政治的勢力や軍事力に有るのでは無く、また、高慢なプライドによって支えられているものでもありませんでした。ただ、神の心を受け止め、神の預言と計画に沿って十字架で贖いの死と復活を通して、信じる全ての者に救いをもたらす、霊的な真のメシアでした。すると、この口止めのエピソードは、イエスは人間的なメシア像で受け止めてはならないとして、それまでの自称メシア達と一線を画する意味が有ったと考えられます。
 

この物語でマタイが言いたかったこと
1)イエスはメシアであり、癒す神である。
2)イエスに対する一貫した信仰が大事であり、その確信と表明が求められる。
2)イエスのメシア性は、人間的希望や計画によるのではなく、神の御心による。

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