ピレモン15節、16節

 

本文

彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。(新改訳)

For perhaps he was for this reason separated from you for a while, that you would have him back forever, no longer as a slave, but more than a slave, a beloved brother, especially to me, but how much more to you, both in the flesh and in the Lord. (NASB)

日本語では、三つの文として訳してありますが、原文ではこれで一つの文です。日本語の訳に現れていませんが、理由を表す接続詞forで始まります。これは、前の文の主節につながると考えるのが自然です。すると、パウロはここで、ピレモンにオネシモのことを「お願いする」という、前の文の主節の動作について、更に理由付け、弁明をしようとしているということです。from you が斜字体なのは、英文法や意味の理解に合わせてなされた、ギリシャ語には無い語句の補足であることを示しています。

構文分析図に示しました4つのポイントの順に確認してみます。

ポイント1
最初は、主節と、それに続く理由の句とその内容を表す節です。オネシモがピレモンからしばらく引き離されていたのは、多分再び、しかも永遠に彼を取り戻すためだったのだろうからという理由付けをしています。永遠にというのは、信仰的には神の国に共に生きるキリスト教徒として、関係が今後切れることも離れることも無いという考えから来ていると考えられます。パウロは、この説明の背後に、神の働きを考え、認めていたと思います。注解ウィドウでGillなどを確認してみると、やはり、オネシモが信仰を持ち、ピレモンの元に帰る背後に神の手が有ったのだ、神の導きが有ったのだと理解できる説明がついています。

ポイント2
ただオネシモを取り戻すためだったということでしたら、大した意味合いは無いように思われます。パウロはここで、もっと価値ある存在として取り戻すことになったということをアピールしています。「もう奴隷として取り戻すのではない」「奴隷以上の者として取り戻すのだ」すなわち「愛する兄弟として取り戻すのだ」と説いています。more than a slave = a beloved brother という関係になっています。キリスト教徒は、同じ信仰を持つ者を兄弟姉妹と呼びますから、ここでは、同じ信仰を持った者になったということを強調しているわけです。

ポイント3
同じ信仰を持つという意味で愛する兄弟となったという点について、更にアピールしています。特別にパウロにとっては愛する兄弟だという点を先にアピールします。それは、彼がキリスト教の信仰に導いたからです。また、獄中に居ても、オネシモがパウロを良く助け、補佐していたからです。この部分は、オネシモにパウロの権威によって箔を着けるというような感覚も有ったかもしれません。
 第二段階のアピールとして、オネシモはピレモンにとってはそれ以上に「愛する兄弟」であり得るだろうということを訴えています。どうしてそんなアピールが可能なのでしょうか、それを示すのが次のポイントです。

ポイント4
「肉においても」というのは、人間関係においてという風に理解して良い箇所だと言えます。オネシモはパウロにとっては偶然獄中で出会った人物という性格がもっと強くなるかもしれませんが、ピレモンにとっては、以前からの知り合いであり、奴隷でした。当時の人達の家族の感覚は、現代の私達より大きい捉え方をしていました。奴隷やしもべ、使用人も家族に近い感覚が有りました。奴隷について確認なさりたい方は、ISBEでslaveを検索すると良いと思います。ですから、人間関係においても「愛する兄弟」だと言う部分を先ず確認しています。
 「主にあっても」というのは、信仰においてもという風に理解して良い部分だと言えます。人間関係においても愛する兄弟と考えることのできる部分があるこのオネシモが、同じキリスト教の信仰に立って、神の元でも霊的な兄弟になったのだということをアピールしています。
 こうして、パウロは、ポイント3で示した、「あなたにとってはなおさら」と言う部分の理由を示しているわけです。ピレモンには、主にある兄弟という点に加えて、奴隷の主人として、家族としての関係が有るから、パウロよりももっと「愛する兄弟」としてオネシモを見ることができるはずだと訴えかけているのです。


信仰的原則
ここでパウロが訴えている信仰的原則は
1)物事の背後には神の導きが有るということ
2)信仰によって霊的な兄弟となった者を愛する者として受け入れるべきこと
と考えることができます。

今回は、原文の構造をなるべく保って、一文で和訳するという試みは無理が多いと思います。提示した新改訳の日本語訳は、原文の意味合いを損なうことなく訳せていると思います。最初の接続詞まで訳せたらとは思いますが、それも無理が出てしまいそうです。

 

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