ユダ 20節-21節

ユダ 20-21 構文分析 日本語表示

今回は、自分のプレゼンテーションの必要から作成した、日本語で書き起こした構文分析図を掲載します。

e-Swodでは、口語訳聖書が日本語で読めます。

ユダの手紙

1:20 しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、
1:21 神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 

 この訳文では、ユダが四つの命令を併記しているように受け取れます。日本語の感覚では、最後に配置された部分が命令の中心のように受け止められるのではないかと思います。

 しかし、構文分析をしてみますと、実は、主節は、「神の愛の中に自らを保ちなさい」という部分であることが判ります。そして、その達成のために必要な要素として、三つの分詞句が説明・修飾をしている形になっています。日本語に訳すにあたっては、21節で完結するように訳さなければならないため、上記のようにしか訳せなかったのだと理解することができます。

 

構文分析による訳

しかし、愛する者たち、あなたがたは、自分達の最も聖なる信仰の上に自分自身を築き上げることにより、また、聖霊によって祈ることにより、永遠の命に導く私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みながら、神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。

 

 

ブログタイトルの下のバナーのクリックにご協力いただければ幸いです。

ピレモン 20節-21節

Yes, brother, let me benefit from you in the Lord; refresh my heart in Christ.
Having confidence in your obedience, I write to you, since I know that you will do even more than what I say. (NASB)

そうです。兄弟よ。私は、主にあって、あなたから益を受けたいのです。私の心をキリストにあって、元気づけてください。
私はあなたの従順を確信して、あなたにこの手紙を書きました。私の言う以上のことをしてくださるあなたであると、知っているからです。(新改訳)


構文分析と訳文の比較

構文分析は、呼びかけ、呼格である”brother”を最初に取り出しました。また、原文でも英語でも最初に来ている”yes”にあたる言葉は、強調を表す語で、英語ではverily, truly などの副詞としての意味を持つということで、命令文の最初の動詞に付く形で配置しました。

「益を受ける」と訳せる語は、ピレモンの奴隷であったオネシモ(役に立つ者)の名前と語幹が同じで、パウロはここでも言葉遊びをしている部分があります。

NASBは、後半の21節を、次の段落もしくは意味のまとまりとしていますが、NIVという聖書は、この21節までを前の段落もしくは意味のまとまりとしています。手元に有るギリシャ語の聖書が21節を次の段落に入れていますから、NASBはそれにならったのかもしれません。個人的にはNIVの区切りが良いのではないかと思いましたので、この二節を取り上げました。

NASBを見ると、20節はセミコロンで区切れています。手元のギリシャ語の聖書でも上付きの点が置かれており、大きな一区切りであることが示されていますが、ピリオドほどの終止感は無いようです。英語のセミコロンの感覚で考えることにして、構文分析図でも補足説明という二つの命令文を線で結んでみました。

e-sword で、他の直訳調の聖書 LITV やYLTなどを見ると、21節は、I wrote という主節の前後に分詞句が配置されています。NASBがsince I know という風に、理由の副詞節として訳した部分も、ギリシャ語の聖書では完了分詞句 になっています。それで、構文分析の方は、分詞句として配置し、NASBと異なっていることを示すために、赤い下線を施しました。
 NASBは原文になるべく忠実に訳すことを方針にしていますので、多くの場合は、分詞句は分詞句として訳します。今回どうしてその方針を曲げて副詞節として訳したのかはわかりません。私には特にそこまでする必要が有ったとは思えません。
 分詞句は、文脈によって付帯状況、理由などのどの用法かを考えなければなりませんし、時には複数の用法にまたがっていると考えることもできるので、直ぐに理解するのが難しい場合が有ります。特に理解が難しい場合や、複数の可能性のうちどれかを取ると、神学的に間違った内容になる場合には、それを避けるために副詞句として訳し、その意味を明確にする努力がなされる場合が有ります。
 新改訳を見ると、理由を表す独立した文として訳してあり、NASBのやり方に近いと言えます。

新改訳は、21節後半の「知っているからです」という部分が本来分詞句であるということを表せていませんが、NASBのように理由の文として訳したことによって、原文の語順とニュアンスに近い訳ができていると思います。それで、今回は構文分析の結果に従った和訳の試みはしないでおこうと思います。


この箇所から学べる霊的意義

ともすると、押し付けがましい依頼の言葉のように見えますが、ポイントは20節に繰り返し述べられています。益を受けたいのも、元気付けて欲しいのも、「主にあって」であり、「キリストにあって」であるということです。 つまり、パウロは個人的な好み、思惑、都合などからこのことを依頼しているのではなく、イエス・キリストの教えに従うならば、そうなるはずであるという部分を確認しているのです。兄弟という呼びかけも、同じイエス・キリストにある信仰がなければ成立しないものです。
 パウロの伝道を通してキリスト教徒になったピレモンが、その教えに従って生きる姿を見ること、またその教えに沿ったパウロの指示を受け入れてくれることが、パウロには喜びであり、すなわち「益」となるのです。ピレモンがそのようにしてくれることが、パウロにとっては、伝道の甲斐が有ったという喜びであり、すなわち「元気づけられる」ことになるのです。元気付けられると訳された語は、「力を取り戻す」という意味も有ります。

キリスト教徒にとっては、イエス・キリストの教えを守ることが、互いの喜びであり、益であり、元気付けられることであるべきです。

 

ブログタイトルの下のバナーのクリックにご協力いただければ幸いです。

 

ピレモン 17節-19節

ピレモン 17節-19節 構文分析

本文

新改訳
17ですから、もしあなたが私を親しい友と思うなら、私を迎えるように彼を迎えてやってください。
18もし彼があなたに対して損害をかけたか、負債を負っているのでしたら、その請求は私にしてください。
19この手紙は私の自筆です。私がそれを支払います。・・あなたが今のようになれたのもまた、私によるのですが、そのことについては何も言いません。・・

NASB
17If then you regard me a partner, accept him as {you would} me.
18But if he has wronged you in any way or owes you anything, charge that to my account;
19I, Paul, am writing this with my own hand, I will repay it (not to mention to you that you owe to me even your own self as well).


全体的な流れは、日本語の聖書でも表現できていると思います。
「彼を受け入れなさい」という命令に、「私に請求しなさい」という命令が続き、「私が書いている」(つまり、私が保証する)という言葉を添えて、「私が支払う」と締め括っています。


17節に有る「親しい友」という語が、NASBではpartnerという語が使われていて、語感が違うような印象を受けます。e-swordで調べると、ギリシャ語ではコイノノスという語で、分け合う者、仲間、交流の有る者、僚友、同志、戦友、同伴者などの意味を含む語のようです。すると、単純に親しいというよりは、キリスト教の発展や教会の成長と維持のために努力し合う者同士という感じを出したいのであろうと考えられます。
 個人的な好みで考えますと、同志とか戦友という訳語を当てて見たいと思わせられる箇所です。パウロが共に苦労を分かち合ってきた同志、戦友であるピレモンに、実はオネシモも同様に苦労を分かち合い、同じ価値観のために刻苦勉励する同志、戦友になったことをアピールし、どうか自分と同じ同志、戦友として受け入れてくれ、いや、受け入れろと迫っていると考えると、もっとその絆の深さや思い入れが理解できるというものではないでしょうか。


構文分析をするときに、とても時間をかけて調べた部分が有りました。19節のNASBでは括弧( )の中に入れられている部分の、文法的なつながりについてでした。ギリシャ語の聖書を見ると、そこは不定詞表現ではなくて、節になっています。文法書なども見たのでしすが、私の習得レベルがまだ低いため、すっきりわかる解説を見つけられませんでした。それでe-swordについているVWSという注解に出ている説明をそのまま採用しました。どうもパウロが他のところでも使ったことの有る、慣用表現的なものらしいのです。so that I may not というのが字義通りの意味合いで、前半部分の I am writing を修飾すると解説されています。それで、構文分分析も、その表現を使い、そういう修飾関係になるように配置しました。それで、NASBの表現になっていないことを示すために、so that 節に赤の下線を施しました。また、本文では、括弧( )が19節の末尾に付くのですが、構文分析では間に入るので、末尾にも括弧( )を示し、それが上に表記されていることを↓で示しました。

括弧( )の中の表現でパウロが言いたいことは、「あなたもキリスト教徒になり、今のように霊的な成長をし、他のキリスト教徒の世話をする立場になったのは、私の宣教と教育の結果であるから、そう意味であなたは私に負債があるが、それはいちいち私が持ち出したりしないでも済むように(私が保証の意味で自筆で書いている)」というようなことになります。

オネシモという奴隷は、ピレモンのお金を盗んだであろうという推測は、こういうパウロの言葉からも出てくるのです。


ある注解では、この手紙を読んだピレモンは笑ったであろうと書いています。私が払うと書いたパウロは獄中に居て、財産も無かったと推測してのことです。そこで、私もピレモンの考えを推測してみました。
 「パウロ先生。先生は財産が無いじゃないですか。そんなことを書いても払えないでしょう。でも解かっていますよ。先生を通してイエス・キリストへの信仰を得て、その拡大のために努力している私には、先生の恩は余りあるものです。もう先払いでいただいたも同然ですよ。こんな書き方をなさらくても、ちゃんとオネシモを受け入れますよ。」
 こんな感じだったのかもしれないと思います。

 

ブログタイトルの下のバナーのクリックにご協力いただければ幸いです。

ピレモン15節、16節

 

本文

彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち、愛する兄弟としてです。特に私にとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、肉においても主にあっても、そうではありませんか。(新改訳)

For perhaps he was for this reason separated from you for a while, that you would have him back forever, no longer as a slave, but more than a slave, a beloved brother, especially to me, but how much more to you, both in the flesh and in the Lord. (NASB)

日本語では、三つの文として訳してありますが、原文ではこれで一つの文です。日本語の訳に現れていませんが、理由を表す接続詞forで始まります。これは、前の文の主節につながると考えるのが自然です。すると、パウロはここで、ピレモンにオネシモのことを「お願いする」という、前の文の主節の動作について、更に理由付け、弁明をしようとしているということです。from you が斜字体なのは、英文法や意味の理解に合わせてなされた、ギリシャ語には無い語句の補足であることを示しています。

構文分析図に示しました4つのポイントの順に確認してみます。

ポイント1
最初は、主節と、それに続く理由の句とその内容を表す節です。オネシモがピレモンからしばらく引き離されていたのは、多分再び、しかも永遠に彼を取り戻すためだったのだろうからという理由付けをしています。永遠にというのは、信仰的には神の国に共に生きるキリスト教徒として、関係が今後切れることも離れることも無いという考えから来ていると考えられます。パウロは、この説明の背後に、神の働きを考え、認めていたと思います。注解ウィドウでGillなどを確認してみると、やはり、オネシモが信仰を持ち、ピレモンの元に帰る背後に神の手が有ったのだ、神の導きが有ったのだと理解できる説明がついています。

ポイント2
ただオネシモを取り戻すためだったということでしたら、大した意味合いは無いように思われます。パウロはここで、もっと価値ある存在として取り戻すことになったということをアピールしています。「もう奴隷として取り戻すのではない」「奴隷以上の者として取り戻すのだ」すなわち「愛する兄弟として取り戻すのだ」と説いています。more than a slave = a beloved brother という関係になっています。キリスト教徒は、同じ信仰を持つ者を兄弟姉妹と呼びますから、ここでは、同じ信仰を持った者になったということを強調しているわけです。

ポイント3
同じ信仰を持つという意味で愛する兄弟となったという点について、更にアピールしています。特別にパウロにとっては愛する兄弟だという点を先にアピールします。それは、彼がキリスト教の信仰に導いたからです。また、獄中に居ても、オネシモがパウロを良く助け、補佐していたからです。この部分は、オネシモにパウロの権威によって箔を着けるというような感覚も有ったかもしれません。
 第二段階のアピールとして、オネシモはピレモンにとってはそれ以上に「愛する兄弟」であり得るだろうということを訴えています。どうしてそんなアピールが可能なのでしょうか、それを示すのが次のポイントです。

ポイント4
「肉においても」というのは、人間関係においてという風に理解して良い箇所だと言えます。オネシモはパウロにとっては偶然獄中で出会った人物という性格がもっと強くなるかもしれませんが、ピレモンにとっては、以前からの知り合いであり、奴隷でした。当時の人達の家族の感覚は、現代の私達より大きい捉え方をしていました。奴隷やしもべ、使用人も家族に近い感覚が有りました。奴隷について確認なさりたい方は、ISBEでslaveを検索すると良いと思います。ですから、人間関係においても「愛する兄弟」だと言う部分を先ず確認しています。
 「主にあっても」というのは、信仰においてもという風に理解して良い部分だと言えます。人間関係においても愛する兄弟と考えることのできる部分があるこのオネシモが、同じキリスト教の信仰に立って、神の元でも霊的な兄弟になったのだということをアピールしています。
 こうして、パウロは、ポイント3で示した、「あなたにとってはなおさら」と言う部分の理由を示しているわけです。ピレモンには、主にある兄弟という点に加えて、奴隷の主人として、家族としての関係が有るから、パウロよりももっと「愛する兄弟」としてオネシモを見ることができるはずだと訴えかけているのです。


信仰的原則
ここでパウロが訴えている信仰的原則は
1)物事の背後には神の導きが有るということ
2)信仰によって霊的な兄弟となった者を愛する者として受け入れるべきこと
と考えることができます。

今回は、原文の構造をなるべく保って、一文で和訳するという試みは無理が多いと思います。提示した新改訳の日本語訳は、原文の意味合いを損なうことなく訳せていると思います。最初の接続詞まで訳せたらとは思いますが、それも無理が出てしまいそうです。

 

ブログタイトルの下に示されるバナーをクリックしていただけると幸いです。

 

 

一つの節に現れた二つの「主」

  マタイ22:41-45には、イエスとパリサイ人たちの問答が有ります。イエス旧約聖書からの引用をして彼らに質問をします。教会に長く通っている人は、一応の意味は理解していますが、パリサイ人たちが同様の意味を把握することができる者であったかどうかという疑問がわきました。

  そこで、このブログの聖書研究ツールであるeSwordを用いて確認をしてみました。

  私の注意を引いたのは、「主はわたしの主に言われた。」という部分です。引照付きの聖書で見ますと、詩編110:1からの引用であるということです。それで、eSwordを開き、KJVという聖書で該当箇所を開きます。

  最初の主にあたる"The LORD"には、H3068というStrong's Numberがついており、二つ目の主にあたる"(my) Lord"には、H113というStrong's Numberがついています。それぞれのNumber をクリックすると、定義ががDictionariesの欄に表示されます。

  H3068には、Jehovahであると表示されました。キリスト教において父なる神と呼んでいる神のことだと理解することができます。

  H113には、Adoni(アドナイ)という語で、Lord, 主と訳される語であることが示されます。旧約聖書のへブル語ですから、そちらを専門に解説している辞書であるBDBに切り替えてみますと、王や主人という意味の他に、「神」という意味が有ることがわかります。アドナイという語は、他の言葉と組み合わせて、「~である神」という表現でよく用いられます。

  イエスがパリサイ人たちにした質問は、メシアはどういう存在かということを明らかにする意図が有りました。ダビデは、メシアを「私のAdonai」と表現しました。その理解は、「父なる神は、私の主なる神に言われた」と訳せる内容になります。メシアはダビデの子孫であり、同時に神であることになるが、ダビデはどうしてそういう表現をしたのかというのがパリサイ人たちへの質問の内容だったということになります。そういう理解でなければ、45節の質問「ダビデがキリストを主(神)と呼んでいるのなら、どうして彼はダビデの子なのでしょう。」が意味をなしません。

 

 

ブログタイトルの下に表示されますブログ村のバナーのクリックにご協力いただければ幸いです。

 

 

「祈り」を表す語にも違いが有った

私がワードスタディーの参考にしている文書を確認していましたら。マタイ9章38節にある、「収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」という記述における祈りを表す言葉が、通常用いられている語ではないということが書いてありました。それで、さっそくe-Swordを使って確認してみることにしました。

e-Swordを起動し、聖書はKJV+を選び、マタイ9章を表示させて、38節までスクロールします。

最初にPrayという動詞が命令文で出てきます。その右肩に表示されるG1189という番号をクリックすると、辞書のウィンドウに定義が表示されます。辞書は情報量が多いので、Thayerを選択します。

表示された定義は

1)欠けている、足りない

2)熱望する 渇望する

3)頼む 乞う

  3a)頼まれた物事

  3b)  祈る 願い事をする

というようなものになっています。

すると、一般的に祈るというよりも、欠乏している状況と強く要望する要素が有る言葉なのだということがわかります。

エスが、働き手を神が送ってくださるように祈れと命じられたのですが、その祈りの必要性の度合いがこのように強いものであることには気づいていませんでした。このような資料に出会えたことに感謝するとともに、イエスのご命令なのですから、いよいよ熱心に神が働き手を送ってくださるように祈らなければと心を新たにいたしました。

 

 

<a id="&blogmura_banner" target="_blank" href="//philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html" target="_blank"><img src="//philosophy.blogmura.com/bible/img/bible88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" /></a><br /><a id="&blogmura_banner" target="_blank" href="//philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html">にほんブログ村</a>

<a id="&blogmura_banner" target="_blank" href="//philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html">にほんブログ村 聖書・聖句</a>

ピリピ1章27節~30節


画像をクリックすると原寸でご覧いただけます。

以前の自分の分析に勘違いが有ったことに気づき、構文分析に改めて取り組んでみました。大雑把な取り組みですが、流れが可視化できたと思います。特に内容についてのコメントはいたしません。番号は、説教でポイントとして提示しようと考えた区分です。
 

<a id="&blogmura_banner" target="_blank" href="//philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html" target="_blank"><img src="//philosophy.blogmura.com/bible/img/bible88_31.gif" width="88" height="31" border="0" alt="にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ" /></a><br /><a id="&blogmura_banner" target="_blank" href="//philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html">にほんブログ村</a>

<a id="&blogmura_banner" target="_blank" href="//philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html">にほんブログ村 聖書・聖句</a>