欺いたのか

ある版の聖書を読んで、創世記31章26節の表現が気になりました。ヤコブが家族と全財産を持ってラバンの元から逃げて行く時の記事です。ラバンは彼らの逃亡に気づいて追跡し、追いついた時に、「なぜあなたは逃げ隠れて私を欺き、」という表現でヤコブを責めています。しかし、果たしてヤコブがしたことは「欺く」ことだったのだろうかと疑問に思いました。

そこでe-Swordを起動し、聖書はKJV+を選び、該当の箇所を読んでみました。すると、「欺く」と訳された部分は"has stolen away"という表記になっています。直接的に騙す、欺くという雰囲気ではないように思われます。

次に、その語に付けられているStrong's number, H1589をクリックして、辞書を表示させます。ヘブル語のワードスタディーですから、BDBを選びます。トップに表示される内容は、「盗む、持ち去る」という内容になっています。その下に出ている派生的あるいは用法の違いによる語義を確認すると、「こっそりと持ち運ばれる、こっそりと忍んで行く」というような表現も出ています。

そうしますと、「欺く」という語感とは少々違うのではないかと思われました。また、「盗む」という語義が有りますが、実際にはヤコブのものですから、その訳も当てはまらいように思います。ラケルがラバンの偶像を盗んだという事実を考えに入れてもです。私としましては、「なぜこっそり出て行ったのか」という訳の方が状況に合っているように思います。32章にはあと二か所ほど同じ語が用いられていますが、やはり、偽り騙すことを表す、「欺く」という表現ではない方が良いように思われます。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 聖書・聖句

ピレモン書 10節〜14節 関係詞を表示した場合


画像をクリックすると原寸でご覧いただけます。

これまでの説明で、8節から14節が原文では一文であり、関係代名詞でつながっているということを述べました。いくらちょっとだけ頑張ってという方針でも、その関係代名詞のつながり具合ぐらい知りたいと思われる方もいらっしゃるかもしれないと思い、ちょっとだけ頑張って、手元の資料とNASBを組み合わせて構文分析図を作成いたしました。childという語に三つの目的格の関係代名詞と同格のOnesimusという名前がかかっているという構造になっています。関係代名詞は赤で囲っておきました。また、ちょっとだけ頑張ってなので、10節からの表示となっています。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 聖書・聖句

ピレモン書 12節〜14節


画像をクリックすると、原寸でご覧いただけます。

このカテゴリーの前の記事で、原文のギリシャ語では14節までが一つの文であるということを書きました。NASBでは、一度11節でピリオドにしてありますが、KJVでは関係代名詞を用いて一文として12節を続け、コロンなどでつなぎながら14節でピリオドが来るようにしています。原文でも関係代名詞でつながっていきます。しかし、今回もちょっとだけ頑張ってということで、NASBの英語だけで、構文分析図を書いてみました。

NASBが11節で切った理由は、ギリシャ語聖書を見ると、上付きの点が有って、一応大きな一まとまりが終わった印が付いているためだと思われます。(e-swordでは記号が見えないと思います。)また、一文を短くして、読みやすくしようという意図が有ったかもしれません。しかし、そのために、関係代名詞を用いないで訳す必要が生じて、原文の構造に忠実に訳すという方針を、ここでは曲げたということになります。

原文では、「彼を」という関係代名詞と同じ内容の目的格の人称代名詞が単独で挿入されています。無くてもわかるはずなのですが、多分、「その彼を」というような強調の気持ちがパウロには有ったのでしょう。また、独立したthat is my heartと訳せる文が割り込ませてあります。(NASBでは、構文分析図に示した通り、that is, sending my very heart)このthatは、オネシモを送り返したという事実のことと考えられます。

先にパウロは、オネシモ(役に立つという意味の名前)が、本当に役に立つ者となったことを述べましたが、今回追加した箇所では、自分の伝道、宣教のために、側に置いておきたかったと付け加えて、どれ程役に立つかということをアピールしているようです。

オネシモは、パウロの気配りの言葉のちりばめられたこの手紙を持ってピレモンの所に帰ったのです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 聖書・聖句

ピレモン書 8節〜11節

原文のギリシャ語を調べると、実はこの文は14節まで続いているのです。しかし、このブログは、「英語を使って」「ちょっとだけ頑張って」がモットーですから、いつも使っている英語の聖書、NASBの区切りに従って確認してみることにします。

本文

8Therefore, though I have enough confidence in Christ to order you {to do} what is proper, 9yet for love's sake I rather appeal {to you} --since I am such a person as Paul, the aged, and now also a prisoner of Christ Jesus-- 10I appeal to you for my child Onesimus, whom I have begotten in my imprisonment, 11who formerly was useless to you, but now is useful both to you. (NASB)

8 私は、あなたのなすべきことを、キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが、こういうわけですから、9 むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、10 獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。11 彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。 (新改訳)


最初にThereforeという接続詞が有ります。「そういうわけで」と訳されることが多いと思います。それでは、どういうわけで、なのでしょうか。これは、前の文の内容のどれかを指しているわけです。これを判断するためには、今回の文の主節の主旨を確認して、整合性を持った部分を見つけ出さなければなりません。

ここで、構文分析の図を見てください。主節の所は、I appeal to you と表示されています。しかし、NASBで8節を見ても、そのような部分は見つかりません。8節は、Thereforeの後、コンマを入れて、thoughで始まる譲歩の副詞節続いていて、主節が後回しになっているのです。主節は9節と、またその確認の繰り返しの10節に現われる、I appeal (to you)なのです。

I appeal to you で使われている appeal と訳された語は、「自分の側に呼び寄せる。励まし、慰め、指示、教示、懇願のために話す。」という意味が有ります。英語でappealという訳語が選ばれたので、特に指示、懇願の意味が有ると考えることができます。e-swordにで日本語の聖書(新改訳)を見ると、「お願いする」と訳されています。
 その主節である I appeal to you、「お願いする」に直接結びついているのは、10節、11節に現われるオネシモという人物についてのお願いです。その部分を、構文分析の図では、赤い枠で囲みました。
 主節の I appeal to you が、実際には、文の後の方に現われ、その内容も最後に示されているというのは、いったいどういうことでしょうか。手紙の筆者であるパウロは、お願いの内容を示す前に、「〜命令できるのだが」という譲歩の副詞節や、「むしろ愛によって」という副詞句、「私は〜な人物なのだから」という理由の副詞節などを挟んで、回りくどい言い方をしているのです。しかも、パウロは、9節で「お願いする」と言い始めたのに、その内容を言う前に、もう一度、「私は〜な人物なのだから」という理由の副詞節を割り込ませて、10節からようやく全部のお願いを言い切るというやり方をしています。それは、パウロが、手紙の受取人のピレモンに、大変配慮し、または遠慮して書いているということを示しています。もし図Bのように書いたなら、主旨はすぐにわかるのですが、ストレートで遠慮の姿勢が少ない印象になります。
 どうして、パウロがピレモンに対してこんなに配慮したり遠慮したりしなければならなかったのかは、また後で明確になります。

パウロがピレモンに「お願い」をしている、その対象になっている人物、オネシモとは、どんな人物なのでしょうか。この文では、彼のことを説明している二つの関係代名詞節が情報源になります。
 最初の関係代名詞節を見ると、「私の収監中に私が生んだ」という内容の説明が付いています。ご存知のようにパウロは男性ですし、獄中結婚をしたという記録は有りませんから、オネシモがパウロの実子であるということではありません。後の16節で、パウロはオネシモのことを「愛する兄弟として」と表現しています。つまり、キリスト教徒としてということです。ですから、この関係代名詞節の意味は、「パウロが獄中で出会って、キリスト教の信仰に導いた」ということです。それを「生んだ」と表現しているのです。それは、同時に深い愛情の表明でもあります。
 二つ目の関係代名詞節では、「以前はあなたには役立たずであったが、今では貴方にも私にも役に立つ」という内容の説明が有ります。ここで、パウロは言葉遊びをしています。オネシモという名前を、e-swordで調べてみましょう。聖書ウィンドウにKJV+を表示させて、Onesimusという名前の所に付いているStrong's Numberをクリックして、辞書ウィンドウのStrong's と Thayerを見てみます。すると、オネシモという名前は「有益である、役に立つ」という意味が有ることがわかります。次いで、辞書ウィンドウでISBEを選択して、検索ウィンドウにOnesimusとタイプすると、最初に「オネシモはピレモンの所有する奴隷であった」という説明がされています。オネシモ、「役に立つ」という意味のこの名前は、奴隷に付けられることが多い名前だったのです。(できれば、ISBEの全ての説明をお読みになることをお奨めします。)
 オネシモは、「役に立つ」という意味の名前を持つ奴隷でしたが、実際は、ピレモンの「役に立たない」奴隷で、牢獄に入れられるような存在だったのです。多くの注解は、彼が脱走してしまったのではないかという推測をしています。ピレモンのものを盗んだだろうという説明をする注解も有ります。

 これで、パウロの回りくどい表現の理由がわかります。そんな役立たずだった奴隷であり、ピレモンの「財産」と考えられたオネシモののことをお願いするのですから、いくらピレモンにとって師匠とも言えるような立場のパウロでも、これぐらい慎重に配慮した表現をせざるを得なかったのだろうと判断することができます。

ここで、最初の接続詞 Therefore に話を戻して見ます。「そういうわけで」「オネシモのことをお願いする」というつながりです。役立たずで、牢獄に入れられてしまうような奴隷のことをお願いするという行為につながりそうな内容は、4節〜7節のどの部分でしょうか。
 5節を見ると、ピレモンが、「すべての聖徒(キリスト教徒)」に愛を持っているという表現が有ります。また、6節に、パウロの祈りの内容として、「信仰の交わりがもっと力づけられるように」ということが示されています。
 すると、「そういうわけで」というのは、「ピレモンが他のキリスト教徒に愛を示していると聞いている」「パウロもピレモンの信仰による交流が更に力強くなるように祈っている」という二つのことを指していると考えられます。だから、その具体的な現われの一つに、オネシモのことも加えてくれないか、という流れで、パウロはお願いの言葉を続けているわけです。


まとめ
今回は、訳は示しません。新改訳は、原文の構造をすっきり表現してはいませんが、パウロの配慮のある言い回しは表現されています。ここの部分のまとめとしては、

1)パウロは命令できるが敢えてお願いするという遠慮と配慮をした回りくどい表現をしている。
2)オネシモはピレモンの奴隷で、名前の意味は「役に立つ」であったが、実際は主人に損害を与えて入牢するような者であった。しかし、牢獄でパウロに会ってキリスト教徒になった。
3)この個所の冒頭の「そういうわけで」は、ピレモンの他のキリスト教徒への愛を伝え聞いていることと、それを根拠にしたピレモンの信仰の交流がもっと力強くなるようにという祈り二つを指していると考えられる。

の三つを確認していただければよいのではないかと思います。 




にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 聖書・聖句

ピレモン書 7節

画像をクリックすると原寸で表示されます。

今回は7節だけ取り上げてみます。先ず、本文を日本語と英語で比較します。

私はあなたの愛から多くの喜びと慰めとを受けました。それは、聖徒たちの心が、兄弟よ、あなたによって力づけられたからです。(新改訳)

For I have come to have much joy and comfort in your love, because the hearts of the saints have been refreshed through you, brother. (NASB)

比較してみますと、原語の構造に忠実であることを目指したNASBでは、接続詞の"for"が付いていて、ピリオドは一つで、一つの文であるという点が、日本語訳と違うことがわかります。

先ず、接続詞"for"に注目します。私の手元に有る三種類の日本語訳では、どれも接続詞の訳と思える語は有りません。いつものようにe-swordを調べてみます。聖書ウィンドウでピレモンへの手紙を表示させ、KJV+を選び、7節の頭に有るForに付いているStrong's Numberをクリックします。それから辞書ウィンドウのタブからStrongを選ぶと、画像に示されているような説明が有ります。理由を示すものなのですが、英語でも多様に訳せることがわかります。Thayerでは、品詞を接続詞と示しています。接続詞の"for"は、基本的には「というのは〜だからである」という風な訳をします。しかし、日本語の聖書がそう訳さなかったのは、原語が多様に訳せるため、雰囲気で読み取ってもらおうとしたのかもしれません。もう一つの可能性は、構文分析等する中で触れてみたいと思います。

接続詞"for"は等位接続詞で、上に示した訳から想像できるように、先に述べられた文の動作についての理由を説明します。では、前に取り上げた4〜6節のどの部分の理由を述べているのかを理解しなければなりません。基本的には、主節の動詞の動作の理由と考えます。すると、これは、4節の冒頭に有る、「神に感謝します」という部分の理由と考えることになります。

本当にそれで良いのかという点は、二つの部分を直接つなげて考えた時、筋が通っているかで確認できます。

「私は神に感謝します。(4節)」「というのは、あなたの愛の内に、喜びと慰めを得たからです。(7節)」

続けて読んでみて、おかしい点、理屈に合わない点は無いようです。喜びと慰めを得たのだから、神に感謝する、というつながりは、自然なのではないでしょうか。他の動詞や分詞につなげて考えても、これほど自然なつながりになる部分は有りません。

そこまでわかった上で、なお翻訳上面倒な点が有るとしたら、理由を述べる文の中に、もう一つ、理由を述べる従位接続詞、becauseが入っていることかもしれません。NASBの本文は、コンマが前についていますから、「というのは〜だから」と訳すのが通例です。この訳し方では、前の部分を一度読点で終わらせる必要が有ります。また、forの訳としての「というのは」も有るため、多重な表現という印象になります。整った日本語の訳を目指した結果、一つの文ですが、読点で二つに分け、forの訳も省いたということのようです。しかし、このために、7節が4節の動作の理由を説明しているという機能の理解は、大幅に失われることになったと思います。


構文分析による訳の試み

(神に感謝します−4節)
というのは、あなたの愛の内に、私が多くの喜びと慰めを得ているからです。というのは、聖徒達の心が、おお兄弟よ、あなたを通して力づけられたからです。

最初の「というのは」が、4節の主節の動詞を修飾し、二つ目の「というのは」が、4節の最初の動詞を修飾します。

NASBで"refreshed"と訳された語を確認してみました。第一義として、「回復するためまたは力を取り戻すために、仕事や様々な行動、活動をとめるようにすること、させること。」次いで、「(他人に)休みを与えること、(自分で)休むこと」というような説明がついています。それで、新改訳の「力づける」もその雰囲気を持っていると判断して、その訳に倣いました。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 聖書・聖句

 ピレモン書 4節〜6節

図をクリックすると、原寸で表示されます。

獄中書簡の中で一番短いピレモンへの手紙から確認してみます。この手紙は短いので、章の区分が有りません。全体的な説明は次の機会に譲り、早速一つの文に取り組んでみます。
今回取り上げるのは、4〜6節です。

英語では次のように表示されます。
4 I thank my God always, making mention of you in my prayers, 5 because I hear of your love and of the faith which you have toward the Lord Jesus and toward all the saints; 6 and I pray that the fellowship of your faith may become effective through the knowledge of every good thing which is in you for Christ's sake. (NASB)
括弧内の部分は、原文には無い補足であることを示しています。e-sword のYLTを見ると、この語は有りません。

新改訳では次のように表示されます。
4 私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。 5 それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。 6 私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。

日本語では三つの読点が有り、三つの文として訳されています。しかし、英文では、ピリオド一つで、一つの文です。この文を訳す時にちょっと工夫しなければならなかったのは、6節の訳であると思います。新改訳では「〜なりますように」という祈願文の末尾を用いました。新共同訳を見ますと、6節の末尾は、「祈っています」訳しています。NASBが and I pray を補っていますから、そういう訳になるのが自然だと分析されたからでしょう。このことは、構文分析をすると更に明らかになるのです。

主節は4節にある「私は神に感謝している」となります。それに付帯状況を表す分詞表現「祈りの中であなたを思い出しながら」が続いています。ところがパウロはここで、その「祈り」の内容を示さず、理由の副詞句を割り込ませたのです。彼にとっては、その理由がもっと大事で早く述べたい事柄だったのだと推察されます。そして、その理由を言い終えてから、やっと、その「祈り」の内容を示したのです。実際の文では離れてしまっていますが、that節が「〜という祈り」というつながりで、祈りの内容を示しています。間が開いたために、6節にたどり着いた時には、英語のthat節が、何につながるのかが不明瞭になってしまうので、NASBは、その不明瞭さを解消するために、and I pray を補ったのです。以前の構文分析図では、prayer と、その内容を示すthat節が同じ物を指すということで、同じインデントで記入されていましたが、4、5節の流れを表すのに邪魔になると判断しましたので、改めました。

節毎にきれいに訳す努力ということもさることながら、今回は、パウロが先に理由を言いたかったという部分を考慮すると、このままの和訳の方が、その気持ちをうまく表現できているのかもしれません。

ちなみに、mentionは「言及」という意味で理解されることが多いと思いますが、e-swordを使って、聖書ウィンドウでKJV+を選び、Strong’s Number をクリックし、辞書ウィンドウでThayerを選択すると、remembrance, memory, mention と説明されており、「記憶する」という感覚が強い語であることがわかります。新改訳の「覚え」という訳も、その理解によります。
 また、effectiveと訳されている語を同様に調べると、activeと説明されています。Strong’sの方では、powerfulという意味も示されています。


構文分析の結果に従った訳

私は、

あなたが主イエスと全ての聖徒達に対して持っている、あなたの愛と信仰について聞いているので、(5節の訳) 

あなたの信仰の交わりが、キリストのゆえにあなたの中に存在している、全ての良い物事についての知識を通して、活発になりますようにという(6節の訳)

私の祈りの中で、あなたのことを思い出しながら、いつも私の神に感謝しています。(4節の訳)

*「あなた」は、手紙の受取人のピレモンのことです。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 聖書・聖句

ピレモン書の記事

別のブログサービスから引っ越しをする時に、ピレモン書の構文分析図の保存に失敗して、そのまま放置しておりましたが、そろそろ手を付けようかと思います。書簡文体の研究のカテゴリーに、残りの記事を少しずつアップロードします。

図を作り直すと、以前の表示と同じになっていない様に見えるのですが、保存されている図はサムネイルのサイズで、内容が殆ど判らず、比較検討ができません。中には、本文の記述と図が合っていないなどということが出てくるかもしれませんが、ご容赦ください。再アップの時には一応気を付けて見るのですが、見落としが有るかもしれません。

また、節を追って読んでも、ブログ記事がうまくつながっていないように感じることも有るかもしれませんが、合わせてご容赦ください。



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

にほんブログ村 聖書・聖句