説話文体研究の実例 イエスの奇跡物語シリーズ #8 ヤイロの娘の癒し

背景など
会堂管理者が登場します。E-sword で kjv+ を開いて該当の語を探すと、ruler という訳語が当ててあります。Storng’s number G758(ギリシャ語で758番)という表示になっています。番号をクリックして、Thayer や Strong’s を辞書ウィンドウに表示させますと、アーコーンのように読める語で、a ruler, commander, chief, leader という説明になっています。
 これだけではよくわかりませんから、ISBE の検索ウィンドウに ruler と入れて調べて見ます。解説の中から新約聖書の記述をみつけ、アーコーンという語の部分を読みます。読んで見ると、割合幅広い内容を持つ語で、新約聖書では会堂管理者の他に、ユダヤ人議会の構成員とその他様々な上に立つ権威を持つ人を表すことができる語であることがわかります。
 ISBEはマタイ9:18の用例では、会堂管理者のことだと解説してますが、どうしてそう判断できたのかが、マルコ5:22とルカ8:41参照という形で示されています。この二箇所では、「会堂の」を表す言葉が併記されています。そして、ヤイロという名前もそこに示されています。

会堂管理者とはどういう立場の人だったのでしょうか。ISBEに詳しい説明が無いような気がしますが、諦めずに、今度はsynagogue (会堂)で検索してみます。すると、5番目の役職の項目の(2)The ruler の説明がみつかります。
 読んでみると、民の長老達の中から選ばれて、誰が旧約聖書を朗読するか、誰が説教をするか、議論の内容が健全かに注意したり、礼拝の手順や秩序を守る仕事をする人というような説明になています。

Gill の解説を読むと、会堂管理者についてのその他の説明として、扉の開け閉めや掃除などの部分も加えられていますが、その仕事を与えられたヤイロは重要で相当の権力の有る人であったと結論付けています。このような人が、誰に律法や旧約聖書を学んだか判らない、パリサイ人達に嫌われているイエスの元に来ることは、常識的に考えると有り得ないことでした。世間を気にすれば、職を失うかもしれないし、プライドが邪魔をして、決してできないことであったと思われます。その彼がイエスの前にひれ伏したと書いてあります。Thayer でその語を調べると、「ひれ伏す」と訳されている語は、新約聖書の中では、地位の高い人や神に跪いて敬意を表すという意味が有って、場合によっては相手の手に口付けするとか、額を地面につけるというような動作が伴うことがあったようです。Gill の解説を読むと、ヤイロの態度は大変謙った態度であり、深いイエスへの信仰を表しているとしています。

ヤイロの家には、笛を吹く者たちや騒いでいる群集が居たと書いてあります。Gill の解説によると、妻が死んだような場合、最低でも二人の笛吹きと一人の泣き女をよぶことが習慣として守られていたようです。また、そうやって笛吹きや泣き女を呼んで皆で悲しむことが、死者を悼むことであり、また死者を尊ぶことであったようです。ヤイロはその社会では地位の高い人物ですから、笛吹きや泣き女も普通より沢山雇われ、人々もヤイロの娘の死を悼むために、大勢集まって、習慣に従って泣いたり嘆いたりしていたと考えられます。ここでもう一つ確実なことは、ヤイロの娘は死んだということです。

間に長血の女の癒しの話が割り込みます。マタイは記録していませんが、マルコとルカは、ヤイロの娘が12歳ぐらいであったと述べています。そして、この長血の女が病気だった期間も12年でした。ヤイロはイエスに対する信仰を告白しましたが、内心不安もあったと思われます。同じ12年という期間と、このような難病が癒されることを見たヤイロは、死んだ娘が生き返ることへの希望をもっと強く持つことができたであろうと考えられます。


強調点
今回は強調を示唆する言葉な無いように思います。


人々の言動からわかること
地位の高いヤイロの信仰と謙遜は既に述べました。そして、彼の信仰は彼の言葉にも表れています。彼は、自分の娘は死んだと言っています。もし、医者を求めるならば、死んだ後に医者を訪ねるのは意味の無いことです。しかし、ヤイロはイエスを訪ねて、イエスが手を置けば生き返るという信仰を告白しています。人の命を呼び戻すことができるのは神だけです。ですから、ヤイロの告白は、イエスはメシアであり神であると言っているのと同じなのです。

エスは立ってヤイロについて行きました。それは、死んだ娘を生き返らせることができるということを表しています。それ自体が保証のようなものであり、その時点でも、ヤイロは願いを叶えられたの同然でした。イエスが笛吹きや騒いでいる群衆に「あちらに行きなさい」と言いました。ユダヤの習慣に従って死を悼んでいた人達や、雇われた笛吹きと泣き女に行くように言うということは、娘は死なないということです。

あちらに行くように言われた群集たちは、イエスをあざ笑います。理由は二つ挙げられそうです。一つは、実際に人々はヤイロの娘が息を引き取ったことをその目で確かめたからだと考えられます。そうすると、イエスの「死んだのではない、眠っているだけです。」という言葉は滑稽であったでしょう。二つ目の理由は、群集より、雇われた笛吹きと泣き女達のことになります。彼らの仕事が無くなってしまうので、稼ぎが無くなったと思ったからではないかと思います。しかし、実際にはそこまで来て、しばらく仕事をしたのですから、全額でなくても、幾らかの支払いはされたのではないかと想像します。
 彼らは、イエスが伝道旅行をした場所の近くに住んでいましたが、その態度を見ると、イエスがメシアであり神であるという信仰は持っていなかったのだと思われます。そこまで思わないにしても、聖書の教師であるという認識だけでも持っていれば、イエスに対する態度は違っていたのではないかと思います。彼らの態度は、霊的な意味であるとか、メシアの力であるとかよりも、目の前の現実やお金が大事だという考えを表していると思われます。



締め括りの言葉
このうわさはその地方全体につたわったというレポートで締め括られています。確かめたかったらでかけて御覧なさいと言っているようです。これは確実に起きた事実なんですよというメッセージになっていると思われます。


マタイがこの物語で伝えよとしたこと
1)イエスはメシアであり、命をも支配する神である。
2)自分の地位とプライド、他人の批判、自分の利得を捨てて、イエスを信じる信仰が大事である。

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