詩、賛美、霊の歌

キリスト教徒でない方で、聖書研究に関心をお持ちの方には、マイナーな話題かもしれませんが、お付き合いください。


書簡文体の聖書研究で取り上げている獄中書簡は、互いに表現が似ている個所が有ります。その一つは「詩と賛美と霊の歌」という表現で、エペソ人への手紙5章19節とコロサイ人への手紙3章16節の両方に出てきます。本文は以下の通りです。

詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
speaking to one another in psalms and hymns and spiritual songs, singing and making melody with your heart to the Lord
(エペソ人への手紙5章19節 新改訳、NASB)

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。
Let the word of Christ richly dwell within you, with all wisdom teaching and admonishing one another with psalms and hymns and spiritual songs, singing with thankfulness in your hearts to God.
(コロサイ人への手紙3章16節 新改訳、NASB)


この三つの言葉をe-swordを使って調べてみます。例によって、KJV+でいずれかの個所を開き、各語についているStrong's Numberをクリックして、辞書ウィンドウでStrong's や Thayerのタグをクリックして定義を確認します。

詩(psalms):元来は、楽器で和音などを奏でることで、聖書的には、旧約の詩篇のこと。
賛美(hymns):元来は、英雄や神々を称える歌で、キリスト教で言う賛美歌や聖歌。
      同時に、Strong'sは、詩篇のカテゴリーの一部だということを示しています。
霊の歌(spiritual songs):神の霊に由来する、宗教的な歌と理解できます。

これらの辞書的な定義を見ると、この三つの言葉は音楽を通して神を称える礼拝の形式のように思えます。しかし、「詩」の説明に有る詩篇は、音楽と一緒に用いられたことは有りますが、詩であり、文学的な面を持っています。また、「賛美」の定義にも、詩篇のカテゴリーの一部という理解が有るわけです。すると、さっと一読して、感じる歌を歌うことという理解でいいのかという疑問が出てきます。そこで、注解等で背景の確認をすることにします。



先ず、それぞれの個所をについて、注解ウィドウにはどんな解説が出るかを確かめます。聖書に収められている順番が早い方の、エペソ人への手紙から確認します。

Barnesによる解説は、「詩」はダビデ詩篇(旧約)を歌にしたもの、「賛美」は初代教会が作った、神を称える歌、「霊の歌」は、世俗の歌ではなくて、短いもの、という感じです。

Gillによる解説は、「詩」はダビデ詩篇、「賛美」は、フィロ、ヨセファスなどの歴史家やタルムードの記述から、幅広く詩篇(旧約)、「霊の歌」は、霊感によって作られ、霊的なことを扱い、霊性の向上のための歌で、詩篇の別称という理解を示しています。

コロサイ人への手紙については、Barnesは、自分のエペソ人への手紙での注を見るようにとしています。

Gillは、これらの三つはおそらくダビデのマスキールなどと呼ばれる詩篇のことであろうとしています。それらが、教え、戒め、育てるのに用いられるからだということです。詳細な区別については、自分のエペソ人への手紙での注を見るようにとしています。



聖書研究では、文章の文脈からの確認が大事です。この二箇所をもう少し細かく観察してみます。

エペソ人への手紙では、互いに「語り」(speaking)、となっています。音楽や歌を「語る」とは言いませんから、この場合は、旧約の詩篇という理解を支持することになりそうです。しかし、後半では、心から「歌い」としていますから、それらにメロディーがついていたことが伺われます。

コロサイ人への手紙では、これら三つを通して、お互いに戒め合い、そのことによってキリストの「ことば」を心に豊かに住まわせる(記憶するということです)という流れになっていますから、やはり、旧約の詩篇という理解が伺えます。後半には「歌う」という部分が入ってきますが、今回は、「心の中で」ということで、実際の歌唱を指してはいません。



これらを総合して考えると、「詩、賛美、霊の歌」の三つは、ユダヤ的文化背景から考えると、旧約の詩篇を指していて、教えのことばが主たる側面で、それを記憶したり典礼に用いるためにメロディーがついているというのがそれに付随する側面であったと理解できそうです。

付け加えておきますと、「霊の歌」という部分に、聖霊に感動して、超自然的に歌が出てくることのような理解をする人がいらっしゃるようですが、それは文脈的にも聖書の教えの整合性からも無理が有るように思います。なぜならば、この三つは、「させなさい」「満たされなさい」という命令文の一部だからです。命令ならば、意志の力で従い、履行できなければなりません。超自然的に歌が出てくるということでしたらば、それは、必ずしも全てのキリスト教徒に与えられていないことになり、全般的な命令の中に現れることには矛盾します。また、教えたり、キリストの言葉を記憶することに主眼の有るこれらの命令の状況にも合いません。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村