ピレモンへの手紙 23〜25節


ピレモン書の最終回です。

Epaphras, my fellow prisoner in Christ Jesus, greets you, as do Mark, Aristarchus, Demas, Luke, my fellow workers. The grace of the Lord Jesus Christ be with your spirit. (NASB)

キリスト・イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラスが、あなたによろしくと言っています。 私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。 主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。 (新改訳)


構文分析の表示の説明
主節の主語と動詞が離れているので、一応下線を施しました。また、厳密にはもっと分解しなければならない部分が有るのですが、むしろかたまりにしておく方が解かり易いもしくは、見やすいと思われる部分は、それ以上の分解をしませんでした。

[ ]の括弧は、他の箇所に有る表現が、実際には書かれていなくても、そこにも関連していることを示します。また、( )は、意味上当然そういう考えが含まれていると判断された言葉を補うのに用いられます。なお、NASBでは、括弧の部分は斜字体でas do と表記されています。これは、英語を整えるために補われた語句であることを示しています。原文には無いということで、構文分析図には入れてありません。

同じインデントで上下に重ねられた名詞群は、普通は同格で同じ人や物を示すのですが、ここでは別人の名前のリストですので、一応区別するために、人まとまりに囲っておきました。


表現など
先ず、動詞です。「よろしくと言っています」と訳されている語は、直接的には「腕で囲む」というような意味だそうです。実際の意図は「挨拶する」という意味で、「歓迎する、抱擁する、挨拶する、別れる」という感覚でも用いられるようです。

「共に、一緒に」という意味になる接頭語を持った語が二つ有ります。「私とともに囚人となっている」と訳されている語は、実際は「囚人」という名詞にその接頭語が付いているものです。「同労者」という語も、「労働者」とい名詞にその接頭語が付いているものです。

最後の節は、「ありますように」という動詞の形で祈願文になっていますし、英語でも be を用いていますが、原文では動詞は有りません。もしかすると、「あなたがたと共に有る恵み」など、名詞句の様に訳すのが原文に近いのかもしれませんが、それでは日本語でも英語でも中途半端で意味がはっきり伝わらないように思います。


人物
最初に取り上げられたエパフラスは、他の人達よりパウロの心の中では深い思い入れが有るようです。E-sword に入っているISBEなどの聖書辞典で調べると、彼はコロサイ出身者で、コロサイの教会で教えた教師であり、彼がコロサイ教会を設立したと推測しているものも有ります。また、彼は小アジアでかなり熱心に伝道したために、迫害に遭って投獄されることになったであろうとする解説も有ります。この手紙が書かれた時には、実際に一緒に牢につながれていたようです。パウロと同じような熱心さで教え、伝道し、同じ牢につながれたとすると、パウロの彼に対する信頼や思い入れは理解できると思います。

同労者とされている人々は、投獄されているパウロの近くに居て、訪問したり世話をしたり、時には伝道や教えることを含め、パウロに頼まれたことをした人達ということでしょう。
 マルコはパウロの伝道旅行に同行したことの有る人です。途中で帰途についたために、パウロの反感を買いましたが、後にお互いに和解して、この頃には良い協力者になっていたようです。後にマルコによる福音書を書いたとされています。
 アリスタルコは、テサロニケの人で、おそらくパウロによってキリスト教徒になった人物であろうとされています。以降ずっとパウロの伝道に同行し、幾多の苦労を一緒にしたようです。他の書簡では、彼もパウロと一緒に囚人であったことが伺われます。彼とエパフラスが交代で牢に入ってパウロの身の回りの世話をしたのではないかという説も有ります。
 デマスは、パウロの同労者として、他の書簡にも名前が記されていますが、テモテへの第二の手紙では、世を愛してテサロニケに行ってしまったとされています。多くの場合、彼は信仰の後退の象徴のように扱われますが、ピレモン書がテモテへの第二の手紙の後に書かれたとしたら、彼の信仰は回復したということだとする解説も有ります。
 ルカは、いつも忠実にパウロの側に居て彼の世話をした人とされています。医者でしたので、詳しくは内容が判りませんが、持病が有ったとされるパウロには、心強い同労者であったと思われます。


構文分析の観察から
エパフラスについては、ただともに囚人となっているということよりも、その理由が大事になります。「キリスト・イエスにあって」という部分が大事なわけです。キリストの教えを伝えるために働いた結果一緒に囚人になっているということに意味が有るのです。もし、ともに囚人となっている理由が、共謀して詐欺や強盗を働いたというようなものでしたら、ここでそれを書く価値がどこに有るでしょうか。そこに仲間意識が働きますし、同じように努力している手紙の受取人であるピレモンにも励ましであり、喜びであったと思われます。
 この後の四人については、単に「同労者」という修飾語句しか有りませんが、エパフラスに付けられた「キリスト・イエスにあって」が当然含意されます。ですから、場合によっては、構文分析図には [ ] で in Christ Jesus を付けても良いぐらいであると思います。この四人は、一緒にテントを作った(パウロはもしもの時の自活手段としてテント作りの技術を身に付けていました)というような同労者の関係では無かったのです。キリストの教えを伝え、教会の人達に教えたり励ましたりすることを、パウロと一緒にした人達です。だからこそパウロに同労者として名前を挙げられたのです。
 「よろしくと言っています」と訳された語は、挨拶をするという意味の語だったのですが、単に習慣的儀礼的挨拶でよろしくと言っているのではなかったと思います。お互いに深く思い遣っていた部分が有ると思います。そして、具体的には、手紙を閉じる言葉であった「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」という祈願が、パウロの言葉に止まらず、エパフラスと他の四人の挨拶、祈願の言葉でもあったと思われます。
 最後のこの言葉には、「私たちとあなたがたに本当に必要なのは、主イエス・キリストの恵みなのだ。」というメッセージが込められているようです。また、「私達はこの肉体やこの世の生活への恵みも必要だが、永遠に続く霊魂への恵みがはるかに大事だ。」というメッセージも読み取ることができるように思われます。


この箇所に見出されるキリスト教的意義
彼らは、イエス・キリストによって深い絆で結ばれている者達であり、霊魂や永遠の命の価値に目を留めた者達の連帯意識の中に生きており、もしキリスト教徒であるならば、それを求め、それを目指す在り方が奨励される。

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