説話文体研究の実例 イエスの奇跡シリーズ #5 ガリラヤ湖の暴風を鎮める マタイ8:23−27

前にアップした記事の前に起きたことの記録です。前後して申し訳有りません。

文化的・地理的背景など
ガリラヤ湖で嵐、暴風に遭った記事です。ガリラヤ湖は周りを山で囲まれています。また、湖面は海面より低い位置に有ります。それで、日没に伴って気温が下がると、重くなった空気が一気にガリラヤ湖に下って行き、暴風になります。この嵐や暴風を表す語は、下ってくる風、はね返って上向きになる風など、いろいろな方向に激しい風が吹く様子を含意しているそうです。この暴風には、雨は含まれて居ません。

水のイメージの記事で書いた通り、ユダヤ文化においては、水は混沌や困難の象徴でもあります。湖で嵐や暴風に遭って、死にそうだと感じたのですから、まさにそのイメージの通りと言えるのではないでしょうか。

旧約聖書においては、天候に関する奇跡は、モーセとエリヤによってしか為されていません。ですから、彼らは特別な預言者と考えられていました。


強調点
大暴風で船が波をかぶり、弟子達が大騒ぎをしているのにイエスが眠っていたということが大きな対比となっており、「信仰の薄い者達だ。」というイエスの言葉につながり、この言葉を強調しています。

人々が「風や波まで言うことを聞くとは」と言って驚愕し、「この人はどういう方だろうか。」という疑問を呈することで、イエスが誰かということを強調しています。人々と表現されていますが、数人弟子以外の人も混じっていたと思われますが、大部分は一緒に船に乗ったイエスの弟子達であることは明白です。


人々の言動でわかること
船に乗ることを決めたのはイエスです。どういうことが待ち受けているかはだいたい予想できたはずです。ガリラヤ湖の嵐は毎日のように起こることだったはずだからです。特別な意図が有ったと考えるのが自然でしょう。
 イエスは大暴風と大波の中で眠っていました。そういうことが起きるだとうということが予想できたのに、そのように眠ってしまうということは、大暴風も大波も意に介さない、安全であるという確信が有ったということでしょう。それが人間に求められる部分としては「信仰」と言えることが、イエスの弟子達への言葉で明らかになります。


締め括りの言葉
先に取り上げた、「この人はどういう方だろうか。」という疑問への回答は、ユダヤ文化的には明白であると考えられます。(イエスの敵達はそれを受け入れませんでしたが。)ですから、これは単なる疑問ではなく、結論の提示であり、締め括りの言葉であると考えられます。


この奇跡物語が伝えようとしていること

1)イエスは自然現象の上に権威を持ち、自然を制御できる存在であり、神である。

背景の所で述べたように、天候を操る奇跡に関わった預言者モーセとエリヤは特別な預言者だと思われていました。そして、旧約のマラキによる預言では、神が使者を遣わし、その人はエリヤと看做されることがわかっています。ですから、エリヤと同様に天候を操ったイエスこそがそのマラキで預言された使者であり、メシアであるということがわかります。それだけではありません。モーセとエリヤの場合は、神の命令により、また、祈りによって天候を操る奇跡が起きましたが、イエスの場合は、イエス自身の命令で暴風と波を鎮めました。ですから、イエスは自然現象の上に権威を持つ存在であり、神であるということになります。それが、「この人はどういう方だろうか。」という疑問への回答であり、この物語の結論と言えます。


2)イエスは神の使者メシアであり、神であるということを信じきる信仰が求められている。

弟子達がうろたえ、眠っているイエスを起こしましたが、イエスは「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」と言いました。イエスを神として信頼し、恐れない信仰を持たなければならないというメッセージが込められていると考えられます。

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