説話文体研究の実例 イエスの奇跡物語シリーズ #10 ナインの寡婦の息子を生き返らせる

今回は、ルカによる福音書7章に出てくるエピソードです

文化的・地理的背景など
ナインという地名が出ています。Gillや Barnesを見ると、ガリラヤ地方の町でタボル山に近い所であったことがわかります。
 寡婦は当時の社会で一番弱い者の代表でした。女性は生計を立てるための仕事をすることが難しい社会でした。ですから、寡婦になると、親類の好意や他人の親切に頼るしか方法が有りませんでした。この寡婦には生活を支えてくれる息子が一人しか居ませんでした。その頼みの綱の一人息子が死んでしまったのですから、この寡婦はさぞ悲嘆に暮れたことでしょう。
 町の門という表現が有ります。町や都市は壁で囲まれていることが多かったのです。また、死体は町の中に有ってはいけないので、手順に従って、しかるべき時に外に運び出され、埋葬されなければなりませんでした。
 多くの人が付きしたがっていたのですが、これは、葬送の行進と言えるものでした。できるだけ多くの人が参加することが求められていました。仕事を中断して参加したりしたことでしょう。そういうわけで、町の人たちが大勢寡婦について来たのです。


強調点
一見すると、特別な強調点は無いように見えますが、幾つか取り上げてみたい点が有ります。

 先ず、イエスの一行が大勢の人につき従われていたということと、寡婦の葬送も大勢の人につき従われていたという対比です。
 もう一つの対比は、イエス寡婦の息子も「一人子」であるということです。しかし、片方は命の主であり、神で、もう片方は命が無い死体でした。

 寡婦の息子は町の門から出てくるところであったと書いてあります。そして、イエスが奇跡の力によって彼を生き返らせた時には、「その死人が起き上がって、ものを言い始めた」ということが書かれています。ここで強調されていることは、この息子は本当に死んだのだということです。門から出るということは、埋葬の準備が全て整ったということですから、完全に死んだことが確認され、体に油を塗られたりしたということです。ただの気絶や瀕死の状態という、回復の希望の有る状況では決してなかったことを表しています。



人々の言動でわかること
エス寡婦をかわいそうに思ったと記されています。神の慈悲の面を確認して欲しいという部分が有るようです。当時一人息子を失った寡婦がどんな境遇であるかは、誰にでもわかることで、誰もがかわいそうに思ったはずですから、それをことさら記したことにはそういう意図が有ったと思います。これは、強調点に入れてもいいかもしれない事柄でもあります。
 次にイエスは「泣かなくてもよい」と言いました。息子が死んだのに泣かなくてもいいはずがありません。泣かなくてもよいとしたら、それは、息子が生きているとわかった時だけです。すると、イエスは実質的には「あなたの息子は生きる・生き返る」と言ったのと同じです。
 このことは、次の棺に手をかけて葬列を止めることにも共通します。立ち止まってもどうせ埋葬するならば、いちいち葬列を止める意味は何も有りません。必ず生き返るという保証をしているのことになります。そんなことができるのは神しかいないという考えにつながって行きます。

人々が「大預言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」と言っています。これは、背景に書かなければいけない部分を含んでいますが、ここからヒントになることは、イエスの出現は旧約の預言の成就であるということです。約束のメシアの到来だという認識が、人々の口を通して表現させられたことになります。
 旧約には、メシアの到来の時にはエリヤのような預言者が来るとされていました。エリヤは数少ない死人を生き返らせた預言者です。そういう預言者が現れるときは、神がイスラエルを再興されるときだと考えられていました。



締め括りの言葉
エスについてのこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まったという言葉で締め括られています。これは、続きに出てくるこの話を聞いたヘロデ王のコメントのエピソードにつなげるための言葉です。歴史的な人物であるヘロデにもその話が届く程その話は広がったという展開になっています。ナインという地名まで出して、このように書くと、記者には本当に有った話だということを伝えたり、行って確かめることができますよという気持ちが有ったと考えられます。


ルカが伝えたかったこと
1)イエスは命の源である神、命をもコントロールする神である。
2)神は慈悲深い存在である。
3)イエスの出現は預言の成就であり約束のメシアである。
4)これは本当に起こったことである。

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