説話文体研究の実例 イエスの奇跡物語シリーズ#1 らい病人の癒し マタイ8:1−4

前に示した手順を基本にして、e-swordを使いながら確認してみます。


1)記者、第一読者、時代など
うまく探せませんでしたので、他のところから引いて来ました。
エスの12弟子の一人であったマタイ。
ユダヤ人クリスチャンもしくはユダヤ人。
60年代説でよいと思います。

2)時代、場所、環境設定など
エスの宣教初期。ガリラヤ地方。カペナウムの町の周辺か。
これは、マタイによる福音書の記事の流れからそう考えられます。

3)強調点
はっきり強調のしるしである言葉や繰り返しは示されていません。
しかし、「イエスの心、神の心」という部分が2節と3節に出て来ます。
また、らい病人が「すぐに」癒されたということが、イエスによる癒しの力が強いことを示しています。

4)人物の発言、行動からわかること

らい病人

ひれ伏すのは謙った態度の表明、敬意の表明。イエスが病を癒すことができるという信仰。Gillの注解は、これを「礼拝した」としています。イエスにそれを決める主権が有るという認識。信仰の表明の結果、その願いが叶えられて、らい病が癒された。


エス
     
らい病人にさわった。モーセの律法では、らい病人は祭儀的に穢れており、触れてはならないことになっていました。Gillは、ルカの記述を引用して、彼は全身がらい病に包まれていて、モーセの律法では「聖い」と宣言されたであろうと述べています。しかし、だからと言って、実際に彼に触れようとする人は居なかったでしょう。ですから、イエスの行動は、周囲にいた人々を驚かせたに違いありません。これは、病に勝る力が有るということを示します。もし、彼が祭儀的に穢れていると宣言される状態であったなら、彼の行動は、イエスモーセの律法を越えた権限を持っていることを示しています。神から与えられた律法を、勝手に破れる存在は、神自身であるということから、イエスは神の子である、神であるという理解につながります。
 誰にも話さないようにという指示。宣教の妨げにならないように、興味本位の野次馬が集まらないように。
 祭司に見せるようにという指示。モーセの律法に、そうするように規定されていたためです。また、らい病が癒された時の神への供え物も決まっていました。これは、二つの意味が有りそうです。一つは、このらい病人が、正式な社会的手続きを経て、きちんと社会に復帰できるように、受け入れられるようにという配慮です。二つ目は、不要な宗教的摩擦を避ける注意深さであると思われます。

5)締め括りの言葉など
結論などの言葉は有りません。「わたしの心だ。きよくなれ。」が中心的な部分であるということが、3)で確認されています。

6)前後の物語とのつながり
直前の7章28−29節では、イエスの権威有る教えに人々が驚嘆しています。イエスはそういう権威の有る存在なのだ、メシアなのだという意味が有ります。

直後には、別な癒しの奇跡の物語が続いています。

すると、文脈的な流れとしては、イエスはメシアなのだ、神の権威を持った存在なのだという点でつながっており、その神の権威の現れが、癒しの奇跡であるという面は見逃せないでしょう。
  

マタイがこの物語を通して伝えようとしたこと

エスは力強い神の権威を持っており、奇跡を起こし、重い病気も治せるメシアである。
もし人が、イエスに頼って来るならば、救われるのだ。(ユダヤ人の伝統では、らい病は罪深さの現れのように考えられていました。その連想からすると、罪が赦されるという部分も少なからず示唆しているように考えられます。)そして、人の病が癒されること、もしくは人の罪が赦されることが、神の望んでおられることである。

付録 らい病

直接解釈に関係有りませんが、上に示したユダヤ人の伝統から来るらい病の理解が、罹患した人達が呪われた存在であるというような印象を与え、病気の当事者達を苦しめてきた負の歴史が有ります。らい病と訳された語をe-swordの辞書ウィンドウで調べると、元になっている語は、「傷」とか「荒れた」というような意味が有るようです。ただし、旧約聖書の記述やモーセの律法の記述を読むと、必ずしも私達がハンセン氏病と呼んでいる病状と一致しないことが有ります。また、被服や家の壁に生じるしみやカビの類も同じ言葉で表現されています。これらを踏まえて、旧約聖書のその個所は、「ツァラト」などの音訳にとどめる試みもされるようになりました。英語の聖書では、旧新約共に、a serious skin disease と言い換える取り組みなどもなされています。

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