修辞表現としての「憎む」

ルカ14章26節に、

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。」

という、キリストの言葉が出て来ます。

え!?肉親を憎めということか!?と驚いてしまう表現だと思います。

e-swordでルカ14章26節の表示をクリックして、右側に有る注解用ウィンドウのタグから、RWPを選ぶと、「古くからの憎むことを表す強い表現の語」というような説明が有ります。やはり、憎悪を持たなければならないのでしょうか。続いて、Strong'sの記号をクリックして、今度は下段の辞典用ウィンドウのタグからStrongs'を選んで表示させると、最後の部分に、「拡張的に、より少なく愛する」という説明が出ています。ようやく「ああ、なるほど」と思える説明に辿り付いたのではないでしょうか。

注解用ウィンドウで、Gillなどを開いてみると、「キリストの弟子になることを欲するならば、キリストを最優先とする気構えが必要だ」という内容の説明が有ります。

なんだ、それなら最初からそう書いてくれればよいのに、と思うところです。しかし、当時のユダヤ人などは、こういう表現でも意味は解ったのです。他の資料などで調べると、ユダヤの知恵文学やラビの教えに使われる修辞的表現で、セム(語族)系の表現方法であるというような説明が出ています。その証拠に、ユダヤ人だったマタイが書いたマタイによる福音書10章37節には、

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」

という具合に、比較表現に置き換えて表現されています。彼にはそういう意味であると解ったのです。しかし、彼自身は、それを記録する時に、修辞的表現で困惑する人が出ないようにと、直接的な表現を用いたのだろうと思われます。


残念なことに、よく調べないで、この部分を文字通りに解釈して、肉親を憎むように指導しているキリスト教の破壊的カルト集団が存在します。私は直接関わったことはありませんが、友人が相談を受けて、話し合いに出かけたことが有ります。ご主人がそういう団体に入ってしまって、家に帰ってこないという御婦人に、聖書の正しい理解を教えたそうです。当のご主人は、話し合いをするならカルト集団の指導者が同席しなければならないという条件が有ると言って、結局話し合いには現れなかったそうです。

「ちょっとだけ頑張って」聖書研究する方法を知っていれば、こんな出鱈目な聖書解釈をする集団に騙されてはまり込むことは無かっただろうにと思います。

皆さんが、文化背景などの研究にも関心を持ってくださるようにと願います。

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