人の心は何よりも陰険で

エレミヤ書17章9節に出てくる表題の表現が気になりましたので、e-Swordでワードスタディをしてみました。この「陰険で」という部分の語をKJV+で表示されるStrongのコードをクリックして、Strong, BDBで確認してみますと、アーコーブというような発音の語で、基本的には欺き、欺瞞を表す語でした。

Strongは、語義のまとめとして、「曲がった、真実を隠した、汚染された」という内容を挙げています。
BDBは、「徐々に害を及ぼす、狡猾である」という語義を挙げています。
他のソフトで調べましたら、「罠にかけようと待ち構えている」という意味も有るということでした。

エレミヤ17章は、神に信頼し神を頼みとする者の祝福を説いています。しかし、イスラエルやユダの歴史を見れば、ことはそんなに単純ではないことが判ります。聖書辞典やKJCで2節に出てくるアシェラやバアルを調べますと、士師記の頃からこの偶像礼拝が入り込んでいることが判ります。バビロン捕囚までのおよそ400年、この偶像礼拝の影響が有ったことが判ります。どうしてなのかということは、正にこの罪の性質を持った「心の状態」に有るという問題が指摘されていることになります。

旧約聖書も、イエス・キリストも、使徒パウロも心を見張るようにと警告しています。それは、心に影響を及ぼす罪の性質が、神に信頼する者おも「罠にかけようと待ち構えている」からであるということになります。

私たちクリスチャンも日々心と戦っている部分が有るのは、このような理由によるわけです。



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