水のイメージ

私が神学院の説教の授業の中で、聖書中水のイメージはユダヤ人的な理解に基づいていたりして、私達の持っているイメージとは異なるのだと言っていまして、どう違うかまで教えてくれたのですが、そういう部分を聖書辞典などを使って確認してみようと思います。

e-Swordの辞書ウィンドウにwaterと入れて検索してみます。

Faussetには、夏の暑さや旱魃に備えて、水を貯える必要が有ったという程度の簡単な説明しかありません。特に目新しい記述は有りません。

ISBEはかなりの字数を割いています。これはと思う記述だけ拾ってみます。ギリシャ人は水を全ての要素と考え、コーランなども水から全てのものは造られたと述べているそうです。創世記の1章2節の創造の記事でも、水は元素的、根源的な役割を担っているということです。これは我々にはあまり思いつかない事柄ではないでしょうか。 

Torreyも幾つもの分類をして述べていますが、これはと思う部分だけ拾ってみます。説明的、比喩的用例の項目に注目してみます。
 迫害、敵軍、苦しみ、神の怒りなどのイメージと関連付けた用い方がされていることがわかります。


私が教授から聞いたような内容は辞書にははっきり述べられていないようです。注解には出ているのかもしれませんが、それはまたの機会にして、私が狙っていたイメージを述べてしまおうと思います。



水には混沌や困難のイメージが有るということです。それは、第一には上にも出ていたように、創世記1章の記述のイメージに由来します。地は形無く混沌としていて、そこに水が有ったという記述から、そういうイメージにつながります。第二には、ノアの時代の大洪水の記述から来るイメージです。40日40夜雨が降った上に、大変長い間洪水が引かなかったわけですから、水のイメージがとてつもない困難と結び付けられるのは無理からぬことです。ですから、イエスガリラヤ湖の嵐を静めた奇跡の物語が聖書には記録されていますが、その箇所でもそういう困難を想起させる水のイメージが結びついているということです。


ちょっと違う話ですが、聖書の中には、「谷川の流れを慕う鹿のように」という形容がなされている箇所が有ります。この時、谷川の流れのイメージはどんなでしょうか?私には、豊かに流れる美しい川のイメージでした。しかし、パレスチナでは、水は大変少なく、川も干上がって、ワディになってしまうことが多いので、そんなイメージを持って考えると、その描写の意図を取り違えてしまうことになります。石を転がしたらようやくちょっとばかり残っていた川床もしくは水溜りを見つけられたというよな、もっと必死なイメージを読み取らなければならないのです。それが見つけられなければ死んでしまうのですから。

上の形容は、詩篇の記者が神の言葉をそんな思い出求めるということです。そんなイメージで聖書を読んだり説教を聴きたがったりする気持ちが、実感できるでしょうか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村